- 2008年8月 6日 13:25
- 日々のこと
今日は、8月6日。
63年前の今日は、広島原爆の日。
そして、3日後の8月9日は、長崎原爆の日。
原爆・戦争の犠牲となった全ての御霊が、心穏やかにありますように。
「やすらかに眠ってください。あやまちは二度と繰り返しませんから」
平和祈念公園の慰霊碑より
被爆地・広島は6日、63回目の原爆の日を迎えた。北京五輪という「平和の祭典」の開幕が2日後に迫る中、核軍縮を巡る国際情勢は依然として厳しい。国内では、原爆症認定についての国の姿勢が問われている。いつ発症するか分からない後障害と原爆体験による心の傷に加え、周囲の無理解と無関心は被爆者を一層苦しめてきた。広島市の秋葉忠利市長は平和宣言で、8月6日を「『こんな思いを他の誰にもさせない』ための決意を新たにする日」と位置づけた。同市中区の平和記念公園で午前8時から行われた平和記念式典には、過去最多となる55カ国の駐日大使らが参列。核保有国では中国が初参加した。
毎日jp「広島原爆忌:63回目迎え、4万5000人が祈り」より引用広島原爆忌:63回目迎え、4万5000人が祈り - 毎日jp(毎日新聞)
広島原爆忌:平和宣言(全文) - 毎日jp(毎日新聞)
広島原爆忌:首相あいさつ(全文) - 毎日jp(毎日新聞)
広島原爆忌:こども代表平和への誓い(全文) - 毎日jp(毎日新聞)
広島原爆忌:祈り 世代、海を越え 被害各地から参加者 - 毎日jp(毎日新聞)
戦争を体験していない私が、戦争とは・・・を語ることはできない。
でも、高校の修学旅行で訪れた長崎と、ちょっとした切欠で訪れた靖国神社では、
戦争がどれだけ恐ろしくて、どれだけ醜い争いなのかを知った。
きっと想像したレベルでは足りないのだろうけれど・・・。
靖国で、戦争に行った兵士たちの遺書を読んだ。
「本当は死にたくない。」
「国の為に死ぬんじゃない。未来の日本の子供たちの為に死ぬんだ」
「自分の死が日本の未来につながるなら、喜んで死にましょう」
「私はこの後靖国に参ります。お母さん、靖国でお会いしましょう。」
"国"という規模で見たときの「お国の為」とは違う、想いの塊。
自分が今ここにいることができるのは、自分の先祖たちだけでなく、
未来の子供たちのことを(つまり、ひらぎたちや、ひらぎたちの両親たちのことだ)考えて
子供の為に、未来のためにと信じて戦った人のお陰でもあるのだということを確信せずにはいられなかった。
戦争を知らない人が、戦争を語ることはできないかもしれない。
でも、戦争はやめようよ、核兵器は良くないよ。と語ることはできると思う。
していけないことではないと思うし、かっこ悪いことでなんか絶対にないと思う。
それに、もっともっと個人のレベルで頑張れることがあると思う。
子供たちのことを考えて戦争で死んでいったのは、絶対に日本だけじゃない。
国と国の間の話になれば、もっと醜いことが理由になっているかもしれない。
でも、その争いに巻き込まれていく"戦士"たちは、誰かの子供であり、誰かの親だ。
そういう、個人のレベルになれば、きっと、誰も、戦争なんて望んでいる人なんかいない。
戦争でしか自分たちを平和に導く術はないと信じている人はいるかもしれないけれど、
そんな人たちが望んでいるのも、自分たちの生活を平和にしたいが為で
結局目指している未来はみんな同じなのかもしれない。
国を豊かにしたいという政治に関わる人たちの思いも、どこの国も一緒なのかもしれない。
自分の大切な人が、幸せに、笑顔でいてくれる環境を作りたい。
きっと、シンプルにシンプルに、そぎ落としていけば、そういう思いになるんじゃないかな。
きれいごと?そうかなぁ・・・。
でも、その気持ちが対立したとき、争いは起こるよね。
でもその争いに借り出されるのは、誰かの大切な人たちだ。
きっと、争いの根源は、常に自分自身の心の中に存在してる。
どんなに平和を愛する人でも、存在している。
戦争とか、テロとか・・・争いの原因は、武器があるからじゃない。
そういう自分の心のなかにあるってことだ。
だって、道具は道具でしかない。
包丁を料理道具として使うか、人を殺めるために使うのか・・・決めるのは自分だ。
武器にするのは、それ自体の存在じゃない、使う人間だ。
原爆開発:女性科学者が初来日 原爆ドームで絶句 - 毎日jp(毎日新聞)
意見を対立させて声を荒げるとき
理解してほしくて声を大きく訴えるとき
己の主張を貫こうとするとき
人と自分を比べ、自分が上位に立ちたいと競うとき
小さな争いがそこには起こっている。
誰かがこぶしを振り上げれば、それを防ごうとする。
声を荒げれば、それを抑えようとして声を荒げる人もいる。
満員電車の中だって、混雑した道中ですれ違う時だって、あるじゃない。
できる限りのことをして周囲の人たちに不快を与えないように行動する人。
肩や肘でまるでもののようによけて歩く人。
戦争をなくそう。
核兵器を持つのをやめよう。
大切なひとが悲しむのは見たくないよ。
大切なひとを失うのはいやだよ。
平和な地球を作ろうよ。
こういう平和の宣言は、政治に関わるひとたちだけのものだけじゃない。
戦争の被害を知っているひとたちだけのものじゃない。
広島や長崎だけのものじゃない。
個人個人のためのものだと思う・・・。
自分の心のなかにある、狂気の存在を知り、理性の存在を知ること。
地球上の動物たちのなかでも人間だけが持っている、ココロは、もっと上手に使えるのかも。
そんな気がした。
Comments:2
- ヒトリグミ 2008年8月 7日 00:21
- まったく同感です。 一人ひとりが 自分の中の出来事と同じように 世界を思えばいい 地球を思えばいい 戦争だって 環境だって 一人ひとりの想いが大事なんだって ずっとそう思っています。
- ひらぎ 2008年8月 7日 20:05
- *ヒトリグミさん* いつもコメントくださってありがとうございます(*'ω'*) 身近なところからやる! ・・・って意識しててもなかなか難しいことですよね。 大切な人を思うからこそ自分を大切にする。 相手を思うからこそ、相手の大切な人も大切にする。 そんな心遣いができるような人になりたいです。 そこで争いが起きたとしても、理性を使える人間でありたいです。