- 2007年7月21日 23:24
- 日々のこと
今日はちょっと個人的で、こむずかしくて、だらだらと長い話です。
魂は永遠に生き続け、器であった体は大地に帰る。
インディアンの教えでは、大地があるからこそ先祖があり、先祖の体が糧となったからこそ大地があるのだと言う。
明日(21日土曜日)は、彼の記念式だよ。
仏教で言うところの四十九日の法要にあたるお式。
あれからもう、二ヶ月近くが立とうとしてることに驚くよ。
早いなぁ・・・。
ちょうど今から一ヵ月半前ぐらいに網代の実家にお邪魔して、お母様とお父様にお会いしたんだっけね。
あのとき、なんか不思議な感じがしたんだっけ。
なんだか、自分の親ほども年上とは思えなかった・・・って失礼だけど(汗
見た目とか振る舞いがじゃなくて、感覚的にそう思った。
そしたら、後日お父様が「始めてあった気がしないなぁ」って言っていて、お母様もそう思ったというから驚いたんだ。
そんな理由から(?)記念式の、お誘いを受けていたのだけれど。
結婚する約束をしていた彼女さんも、ひらぎに会いたいって言ってくれているみたいだけれど・・・参加するのはやめることにした。
特に大きな理由はないけど・・・
家族と大事なひとで時間を過ごしてほしいって思ったから、明日は熱海の海を思い出しながら心の中でお祈りすることにした。
彼の訃報を聞いてからというもの、ひらぎの頭のなかでは「死」について沢山沢山考えがめぐっている。
ひらぎが突然死んだら、両親はどう考え、どう思うんだろうということとか、自分が残したもろもろのことがどうなっていくのかということを考えていた。
たとえば、ひらぎの残したWEBサイトや写真たちがどうなっていくのか。
結局、ひらぎは今のところとても健康で、特に明日を不安になるような理由があるわけではないから、今までどおり生きていくのだろうけど。
でもなんだか「死」に関してだけじゃなく、「生きていくこと」に対する価値観もなにかが大きく変わった気がしたんだ。
祖父が天寿を全うして他界したときとは、あきらかに違うこの感覚。
彼と、自殺について半日以上語ったときのメッセンジャーのログはいまも手元に残ってる。
フォトログのプロフィールに書かれている言葉。
「刹那的な感情に入り浸るのはもうやめよう。上向くもん」
彼が生きることを決心した直後。
自分の意思の及ばないに力よって突然迎えた結末。
神様がいるなら、どうして死にたいと思った時に迎えてくれなくて、生きようと決めて動き出した時に迎えいれるんだろうって思った。
その答えはたぶん一生見つけることはできないけど。
つい先日いった北海道。
祖父は大きな写真を額装されて飾られていて。
それを指差して「じーたん」と呼ぶ秀。
タッチができなかった秀が、そんな時に数日顔を合わせただけのひらぎを覚えていてくれたのかも疑問だけど。
あのとき小さな小さな命だった秀があっという間に大きくなって、自分からひらぎの背中に飛びついたりしてくる。
ダッコしたときも、背中に飛びついたときも、ぎゅーってひらぎの首に抱きついて、嬉しそうに笑い声をあげる。
たったそれだけのことなんだけど、なんだかすごくひらぎの頭の中にヒントをもらえた気分になった。
北海道の大地を肌で感じて、アイヌの土地に踏み込んだときにも。
「あぁ、生きるってこういうことなのかもね。」
コトバにあらわせないけど、すごくすんなりくるような感覚。
埼玉に帰ってきてから、時々思い出して、その感覚を確かめているうちに、なんだかひっかかっていたものが取れた気がした。
Take it easyって言ってもやっぱりこうやって頭の中で発効させないとどうにも動けないみたい。
それはそれでいいよね?前見れるなら。
その間、付き合いきれないって?それはそうかも・・・。
ごめんなさい。(´・ω・`)
シンプルに、心穏やかに、愛情豊かに。
刹那的な感情を捨てて、上を向いて歩こう。
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